コラム
日本聖泉キリスト教会連合 中京聖泉キリスト教会 秋山 直光
「ラジオとわたし」
ここ数年のことでしょうか。車に乗る時、ラジオをつけるようになりました。そして、流れてくる語りや音楽に〈身をまかせる〉のをとても心地よく思っている自分を発見して、おかしく感じたりもしています。
もう少し若い頃は、そうではありませんでした。自分の好きな音楽を持ち込んでは、次々とかけていたものです。
自分の聴きたいものを聴く。当時はそれが、私の至福の時間の過ごし方でしたが、ある頃から〈主導権〉を相手に渡して、自分はただ受け身になることが、何ともゆったりとして心地よくなったのです。
似たようなメディアでありながら、テレビとラジオは大違いです。
テレビは手を止めさせますが、ラジオは聞き流しができます。何かをしながらテレビを見ることはむずかしいですが、ラジオは可能です。
ラジオ電波に乗せての福音放送は、こうした強みがあるように思います。何気なくラジオに耳を傾けていて、たまたま流れてきた福音放送がきっかけで求道を始めた人の証をよく聞きます。
私たちの生活の中に、すうっと入り込む力のある媒体ならではなのでしょう。
また、〈聞く〉という福音の受け取り方の大切さも感じさせられます。
アモス書八章一一節『見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのき
きんである』は有名な御言葉ですが『主のことばを〈聞く〉ことのききん』です。
聖書も〈読む〉でなく〈聖書に聞く〉ことの大切さを痛感します。本来、御言葉は〈聞くもの〉だったのですから。
私のカーステレオのように何気なく聞くにしても、また御言葉に真剣に聞くにしても、〈聞く〉という行為は主導権を相手に初めっから渡す行為でしょう。福音の入り方として、それは最高の入り方
なのかもしれません。
東海福音放送協力会のお働きが、なお用いられるよう、お祈りいたします。