コラム
巻頭言 「イエス・キリストのとりなし」
日本長老教会 鈴鹿キリスト教会 牧師 大竹海二
若いころにFEBC(キリスト教ラジオ放送)に出演依頼を受ける時に、こんな説明を受けました。「ある地方にいる青年が生きる希望を失って、死ぬ前にアパートの部屋を滅茶滅茶にしようとして家具などを蹴っていたら、急にラジオのスイッチが入ってFEBCの番組が聞こえてきて、その日はいつの間にかその番組を聞いたそうです。それから毎晩FEBCを聞くようになって、やがてキリストを信じて洗礼を受けました。」そんな説明に励まされてその後二年間、リスナーの質問に答えるという番組に出演しました。
このエピソードは、イエス様が嵐の夜のガリラヤ湖を歩いて、悪戦苦闘している弟子たちの舟まで歩いて近づかれたことを思い出すものでした。ラジオで流れる福音のことばが世界のどこにでも流れて行って、聞いている人にキリストが直接語られるという御業がなされているわけです。
またFEBCのスタッフに教えられた一つのことは、ラジオというのは最もパーソナルなメディアで、単に質問の「内容」に答えるのではなくて、質問者自身の「魂」に語るように話してください、ということでした。誰かに質問をされますと、その質問の内容に何とか正解を答えようと一生懸命になってしまうのですが、実はその質問をしたその人の心が本当に訴えたい、心配や不安や心の傷に対して対応していくことの重要性にも、少しずつ目が開かれていきました。
しかしそのことはとても大変なことで、全く知らないリスナーの短い質問の言葉から、その人の心の中をくみ取ることは不可能に近いことです。あと二年で八十歳になろうとしている現在も、なかなか相手の魂に対応しようという姿勢に欠けている自分の貧しさをおぼえています。
「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられる」(ヘブル人への手紙七章二十五節)。このイエス様の天でのとりなしの御手の中で、私たちの伝道牧会が用いられ祝福されていることを覚えます。主の救いの御業のために用いられていますことを、心から感謝いたします。