コラム
日本同盟基督教団 神岡キリスト教会 牧師 古川弘幸
私は、このTBAだよりの巻頭言を依頼されてから、今の社会におけるラジオによる放送伝道の状況を思い巡らせてみました。その中で、聖書に記されている『二つの声』のことが心に思い浮かびました。
その一つは、預言者エリヤに語られた主の声です。(Ⅰ列王記19章参照)。
主は、死を願うほどに疲れ果て、自信を失っていたエリヤに「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と繰り返し語りつつ、エリヤを回復へと導かれました。
福音放送は、エリヤに語りかけた主の声のように、厳しい社会の中で疲れ果てている人たちや自信を失っている人たちに『励ましや生きる力を与える声』だと思います。
そして、もう一つは、バプテスマのヨハネの声です。(マタイ3:1~3参照)。
バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫んで、救い主イエス様を迎える為の準備をしました。福音放送は、荒野のような荒涼とした社会の中で生きる人たちに、救い主の存在と愛を語り、『救い主を信じるように呼び掛ける声』だと思います。
私たちの教会は、岐阜県の北部に位置する飛騨市神岡町にありますが、神岡町は平成22年10月1日の時点で人口9526人(飛騨市全体で26732人)。過疎化が進む山間の町です。しかし、そんな山間の町にもラジオの福音放送は届いています。
ラジオから流れる声は、バプテスマのヨハネが発したような叫び声ではなく、エリヤが神経を集中しなければ気づかなかった「かすかな細い声」(Ⅰ列王記19:12参照)のようなものでしょう。しかし、それは、多くの人たちの祈りと献身によって届けられている特別な声です。今は、ラジオだけでなく、インターネット「Radiko」でもラジオ放送を聴くことができます。今日も続けられている放送伝道の働きが、疲れている人たち、自信を失っている人たち、救いを求めている人たちの心の必要を満たす声として、益々用いられていきますように祝福をお祈り致します。