コラム

鴨下直樹 同盟福音基督教会 芥見キリスト教会 牧師

「耳の信仰」

先日、何かの読み物の中で、聴覚言語と視覚言語という言葉を見つけました。特に、日本語は擬音語や擬態語が多く、耳で聞く聴覚言語が豊富だというのです。そのために、抽象的な名詞を使う表現よりも、具体的な話の方が分かりやすいと感じるのだそうです。
 ラジオはその意味ではとても都合がよく、日本語の特性を良く生かしたメディアだと言えます。聖書も、もともとは目で読む読み物というよりは、耳で聞くものです。教会は、長い歴史の間、この耳で聞くということを大切にしてきました。
 神はかつて、イスラエルの民に十戒を与えた時、火の中から語りかけ神の臨在をお示しになられました。それ以来、神を見るのではなく、神を耳で聞く信仰となりました。こうして、神の言葉を聞くことが、神との関係に生きることを意味したのです。

 私たちの今の生活は、見ることに少しずつ重点が移っています。テレビ、ネット、タブレット。もちろん、同時に聞いてはいるのですが、どうしても見るということに重点が置かれて行きます。しかし、忘れてならないのは、私たちは神を見ることを望むのではなく、神から聞くことが全てです。神の言葉を耳から聞く。この信仰の基本は、いつも変わることはありません。
 かつてモーセは燃える芝の中から神の言葉を聞きました。そして、十戒を与えられた時も、神は火の中から語りかけられたのです。また、エリヤはカルメル山でアハブ王のもとにいたバアルとアシェラの預言者と戦った後、妻イゼベルを恐れて荒野に退いたとき、神はホレブの山で、風や地震や火を見せられましたが、そこに神を見つけることはできませんでした。「しかし、火の後に、かすかな細い声があった」(Ⅰ列王19:12)と、主の御声を聞きます。主イエスが変貌の山でモーセとエリヤと出会った時も、雲の中から神はことばを与えられ、パウロの改心の時も神は天からの光の後に、神からの御声を聞くのです。
 これらは、偶然のことではありません。神はみこえを聞くことを願っておられるお方です。そして、そのためにこの放送が用いられていることは神のみわざのひとつと言えます。ぜひ、この放送を通して、聞く信仰を培う機会としてください。

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