コラム

日本バプテスト宣教団 伊勢バプテスト教会 牧師 谷口峰夫

日々みことばに養われることの幸い

毎日ラジオから流れてくるメッセージ。そのみことばによって養われる機会があることは、私たちにとって素晴らしいことです。「私は、毎日聖書を開いてみことばを読み、そこから教えられています。それに加えて福音放送を聴くことに、あまり必要性を感じません。」こう考える方も、いらっしゃるのではないでしょうか。

私には、放送伝道の大切について、考えさせられた出来事があります。

お世話になったA牧師は、私に次のようなエピソードを話してくださいました。

A師の父上も牧師で、地方での牧会に携わってこられました。あるときA師は、父上からノートをプレゼントされたそうです。そのノートを開いてみると、世の光のメッセージがビッシリと書き写されていたのでした。牧師であった父上は、牧師である息子のA師に、自分がこれまで聴いて忠実に書き写してきたメッセージノートを託したのでした。

どんな想いで、父上はこのノートをA師へと手渡したのでしょうか。毎朝ラジオの前に座り、世の光の放送に耳を傾け、録音したメッセージを聞き返しながら一字一字丁寧にメッセージを書き写した老齢の牧師の姿を思い浮かべたとき、みことばに養われたいと願う、ひとりの信仰者の姿を、私は見出すのです。

聖書のみことばを読み、その意味を探求し、主のみことばから教えられ、自らが養われる。牧会者の日々のみことばに根差した研鑽が、牧会の土台にあることは確かです。しかし、この牧師は、自分でみことばを読んで研究し教えられるだけでなく、自分以外の牧師のメッセージに耳を傾けること、つまり、主が牧者を通して語られることばに、一人の羊として耳を傾けることの大切さに、目を向けていたのではないでしょうか。

自分がみことばに養われる存在として、スピーカーから流れる牧師の声に耳を傾け、心を開く。多くの兄弟姉妹と共に、同じメッセージを聴き、教えられ、養われる。このような機会が私たちに開かれていることは、何と幸いなことでしょう。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10章17節)

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