コラム

同盟福音基督教会 岐阜キリスト教会 牧師 川村真示(カワムラシンジ)

「奇をてらわずに」

時代の流れは早く、昨日の流行が、今日の時代遅れとなることも良くある。私も「ずっとガラケーで」と言っていたのに、バッテリーの不具合を理由に、いつの間にかスマホを持ち歩いている。その前は、恥ずかしかったわけではないが、電車の中でガラケーをパカッと開けることに、妙な自意識を感じていた。そうやって、時代の流れに抵抗したり、乗じたりしながら、日々生活している。

教会も、時代の流れの中に生きている。それは、いけないことではない。パウロも「ユダヤ人にはユダヤ人のように」(Ⅰコリント9章20節)と語っているように、より多くの人を獲得するために、時代の潮流を見極め、福音の中身は変えずとも、それを届ける器は、変えて行っても良いだろう。いや、変えて行かなければならない。

私たちの教会でも、新しいミニストリー(伝道の働き)を立ち上げたり、スモールグループを始めてみたり、祈祷会のもち方を変えてみたり、新しい賛美を取り入れてみたり、色々なことを試している。

でも、特に、最近思わされていることは、時代を追い過ぎるあまり「奇をてらってはいけない」ということ。福音を届けるために、その器(方法)は工夫するが、中身は決して変わらない。結局は、失望しないで祈り続け、福音を語り続け、地道に礼拝する共同体を建て上げて行くこと。そう考えると、やっていること自体は、実はそれほど変わっていない。

「世の光」も、福音を伝える媒介を、デジオの電波から、最近ではインターネットへと広げている。私もPodcastに「世の光」を登録し、みことばに耳を傾けている。これを、早天祈祷会に利用してもいいかなと、少し考えている。

様々な事情で、なかなか教会に来られないクリスチャンや求道者たちもいる。そういった方々にも、福音が届けられていることは、何と尊い働きでしょう。また、世の光の働きを通して、教会に導かれる方々もある。地域教会には、この働きをサポートする責任がある。なぜなら、私たちの働きの目的は、個々の教会だけではなく、もっと広い視野で、この地に神の国を建て上げることなのだから。

カテゴリー